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2012年9月2日日曜日

コミュニケーションにおける「場」の形成について



ちょっと難しそうなタイトルを付けてしまいました。

昨年、8月投稿「コミュニケーションは人間の生存の仕方である」と、
コミュニケーションについて当センターの見解を示しました。

今回はおじいちゃんと孫である女の子を例にとって、
コミュニケーションの「場」について考えてみます。

1.「場」が形成

女の子がおじいちゃんに手をひかれ嬉しそうに歩いている。
おじいちゃんは女の子に較べてはるかに未来がない。
女の子はおじいちゃんに較べればはるかに長い未来を持つ。

この2人に交わされるコミュニケーションは何であろうか。
コミュニケーションの代表格である言葉を例に取って考えてみる。

例えば、おじいちゃんから発せられる一言は、そのまま女の子に届くのではない。
その一言は、文化の海を経由し、文化の意味付けを施して女の子に届く。
別の見方をすると、言葉に内在する文化を具現させながら女の子に届くのである。

このような一言づつのやり取りから、
そこには文化の海、「場」が形成され、
コミュニケーションの一要素が姿を現す。

さて、コミュニケーションにおける「場」の形成には、
今のところ4つの要素を考えている。
1)時間、2)空間、3)文化、4)生存。

1)時間
おじいちゃんと女の子は「場」を形成する「時間」にどう関わるのだろうか。
おじいちゃんの時間は、何十年の「場」を経て「今」にあり、
女の子の時間は、数年の「場」の経て「今」にある。

しかし、両者が同時に存在したときから同じ「場」でコミュニケーションしてきている。
両者の「今」は常に同じ「場」にある。
「場」は過去を包摂して「今」にあるからである。

おじいちゃんが発する一言も、女の子が呼応する一言も、
「今」という「時」の同じ「場」を具現しながら行われている。
つまり、「場」に対しては、おじいちゃんと女の子は同質であり、平等である。

「場」はコミュニケーションにより千変万化して「今」に集積する。
おじいちゃんだけが生存した「時」は、
おじいちゃんと女の子が同時に生存する「時」の「場」に集積しており、

2人は同じ「場」を経由し、
又は同じ「場」を具現しながらコミュニケーションをしている。
すなわち、おじいちゃんと女の子、それぞれが生存する「時」を超えて、
「場」の内に同じ「時」として現れてコミュニケーションが行われている。
 

2)空間

おじいちゃんと女の子は「場」を形成する同じ「空間」でコミュニケーションを交わす。
「場」は「空間」を有するから実際、コミュニケーションが可能となる。
例えば、おじいちゃんと女の子が同じ部屋で話をするなら、
これは疑いのないことである。

では、別の場所からケータイで話をすると事情が変わるのだろうか。
「空間」を共有していないではないか。
そのとおり。空間を共有していないのでコミュニケーションは不可能である、
にも拘らず実際コミュニケーションはケータイで行われている。

この場合、「空間」は「場」にどのように関わるのだろう。
そして「空間」はコミュニケーションに対して、どのような位置付けになるのだろうか。

そもそも「空間」は何の関連もなく単独に存在するものではなく、
「空間」が生み出される他の関連のなかで意味を持ち得て認識に上る。
コミュニケーションとの関連で言えば、
「場」を形成する「空間」として捉えられたとき、
「空間」が存在する。

おじいちゃんと女の子は、別の場所からケータイを使って
単に、言葉のやり取りをしているのではなく、
言葉は「空間」を「場」に具現しながらコミュニケーションを行っているのである。

このようにコミュニケーションツールの発達によって「場」の拡大が進み、
おじいちゃんと女の子は、どこに居ても同質の「場」を得られるから、
日常の延長として、会話を楽しむことが出来るのである。


3)文化

おじいちゃんが発する一言は、言葉上の意味はもちろんのこと、
略語、暗喩、比喩 果てはノンバーバル、或いは使う時間帯、環境等、
それらか総合的な意味付けをして、女の子に届くのである。

我々が日常会話をするときも同様であり、
更にコミュニケーション対象者、対象グループ、状況、
或いは内容や目的、数々の条件の制約など、
その国の、その集団の、その文化を纏って行うのである。

このように「一言」に含まれる文化が「場」を形成し、
或いは「場」に含まれる文化を纏って、
おじいちゃんの言葉が女の子に届いていたわけである。

女の子が呼応する一言も「場」に漂う文化を纏い、
おじいちゃんに返されていたのであろ。

「場」について分かりやすい例を用いて説明すると、
光の三原色がある。
「時」、「空間」、「文化」が重なり合うとき白色になって、
そこはどんな色でも表現できるキャンバスが出来上がる。
このキャンバス上にコミュニケーション・ツール(言葉、非言語・・・etc
自由気ままに飛び交っているように見える。

キャンバスである「場」の存在に気づかないことが、
コミュニケーションの解釈に混乱をもたらしていると思われる。
 

4)生存

「場」は「時」、「空間」、「文化」により構成され、
人間の生存、すなわちコミュニケーションによって変化、発展する。

人間は生きる在り方をコミュニケーションで実現しており、
したがってそこは現在、自由競争、優勝劣敗の掟が貫かれており、
「場」もこの掟から自由ではない。

なぜなら、「コミュニケーションは人間の生存形態」だからであり、
ありとあらゆる競争を内在しているからである。


だから喩え、温かい感情が交流するラポール・コミュニケーションと言えども、
生存を貫く競争、戦いの中でしか得られず、
それ単独で意味を成すコミュニケーションではない。

それもそうだろう、
もしこの世界に国家、民族、人と人とに争いが無く、
誰しも温かい感情で結ばれる関係にあるのなら、
ラポール・コミュニケーションと言う言葉自体が死語になるからである。

おじいちゃんと女の子のコミュニケーションは、
温かい感情で結ばれる関係にありながら、
常に変化、発展する「場」を纏い、
或いは「場」に変化、発展をもたらしている。

そしておじいちゃんと女の子は、
地球人口の何十億分の一に過ぎないが、
これは逆に一人ひとりのコミュニケーション総和が、
コミュニケーションの「場」を作ることを意味する。

すなわち生存競争がコミュニケーションの「場」に動的要因を与え、
コミュニケーションが不断に変化、発展して行くのである。

2011年9月11日日曜日

コミュニケーションは人間の生存形態である




ここ数日、良いお天気です。

本格的に秋の到来が感じられますね。


8月1日投稿「コミュニケーションは人間の生存の仕方である」について、

「匿名」様から書き込みをいただき、

センターからの回答をさせていただいております。


その後、知人からもこの言葉(命題)について質問がありました。


 「コミュニケーションは人間の生存には不可欠である」

或いは、

 「人間はコミュニケーションの中でしか生存できない」

ということになるのか、と。


いえいえ、そういうことを言おうとしたのではありません。

コミュニケーションは「人間の生存の仕方そのもの」と言いたかったのです。


アカデミック調には、次のように言い換えられます。

「コミュニケーションは人間の生存形態である」

ちょっと堅苦しい表現ですが、この方が分かりやすいでしょうか。


今後、コミュニケーションのあれこれについて、

この認識に基づいて考えていきたいと思っています。


2011年8月1日月曜日

コミュニケーションとは



コミュニケーションは人間の生存の仕方である。


コミュニケーションって一体何なんだろう?

あれこれ考えてきましたが、

この言い方がしっくりきました。


2011年7月30日土曜日

ラポールコミュニケーションの成立要件



今日は用事で神戸花隈に行きました。

花隈には他に大きな楽しみがあります。

「朝日食堂」でお昼ご飯を食べることです。


お店の前にはいつものように行列が出来ています。

それも真夏の陽光に打たれながらですが、

今日は時々、曇ったので助かりました。


「朝日食堂」はとにかく美味しい、ボリューム満点、しかも安い。

味も盛り付けもお店の雰囲気も素朴。

店員さんも変に飾り気のない率直な応対で気持ちがいいですよ。


やっと順番が来ました。



満席なので若いカップルとの相席になりました。

目の前で二人、楽しそうに食べいます。

ここは邪魔しないように気遣って素知らぬ振りをしていました。


男の子が連れの女の子に自分の料理を渡しています。

その度に女の子からは「う~ん」、「わ~」と感動の言葉、

いや「忍び音」のように言葉が洩れます。


なるほど、ほんとうに食べるのが好きなカップルなのだ。

では、ラポールコミュニケーションが成立する。


「ここのお店、美味しいでしょう」と問いかける。

すると、二人とも弾けるような笑みを湛えて「ホント!美味しいですよね」


二人はグルナビでこの食堂の噂を知り、

大阪から食べに来たとのこと。

私も食べることはこだわります。


二人は食べ歩きをしていること、

私が亀岡から来ていること、

女の子が「先ほど、ケータイで写真を撮っていましたよね、食べるのが好きな人だと思いました」


旧知の間柄のように話が弾みます。


「楽しいおしゃべりと美味しい料理があれば他には何もいらないよねえ」

こんな人生究極の目的と言えることにも同感し合いました。


「食べることが好き」という共通基盤によって、

今日は楽しい昼食を満喫しました。


ラポールコミュニケーションの成立要件には共通基盤が必要なのです。


2011年7月12日火曜日

ロボットとのコミュニケーション

いやあ、猛暑になりましたね。

夜、暑くて寝付けません。

あれこれしている内、

ロボットとのコミュニケーションについて考えていました。

それで余計に眠れなくなってしまいました。

もういいや、朝まで起きていよう、

と思っているうち、朝まで眠っていたようです。


中学生のころ、人間とロボットとの愛情の本を読んだ記憶があります。


新しいロボットに取り替えたいのですが、

古いロボットに愛着を持ってしまった持ち主との物語です。


最後は事故で亡くなった持ち主の墓前を動こうとせずに朽ち果てていくロボット。

誰しもその古いロボットを撤去しようとしない。


かなりの衝撃を受けた物語でした。


あれから半世紀の歳月が流れました。


今、ロボットがいろんな方面で活躍し、

ロボットとのコミュニケーションも盛んに研究されています。


もし、遠い昔に読んだロボットの物語がほんとうに再現できるなら・・・

でも、私の答えは、NO!


いつか、その理由を書きたいと思います。


ロボットと愛情の交流やコミュニケーションが可能なのか、否か。


みなさんも一緒に考えて見てください。

寝付けない夜、更に寝付けなくなること請け合いですよ。


2010年5月30日日曜日

ヤノマミ

読売新聞朝刊に「ヤノマミ(国分拓著)NHK出版」の紹介(書評)がありました。

「善悪や規範を超え、ただ真理だけが存在する世界。
見たくもないものを覆い隠し、汚いものを排除し、
その上で善人ぶる私たちの社会の対極にある」
と、河合香織(ノンフィクション作家)が評しています。

なかなか。
われわれの社会の本質を見抜いているようですね。

私は不意に「善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を思い出しました。

善と悪・・・興味深いテーマですね。

私たちが生きていくには他者―社会との関わりが必要です。
その関わりはコミュニケーションの形を取り、
「自分」はコミュニケーションをとおして生れるのではないかと思います。

他者との関わりから自分が生れ、成長すると思うのです。

でも、他者は現代社会を生きています。
人間性よりも生産性、効率性を最優先しないとやっていけない。
コミュニケーションは当然、生産性、効率性に規定された質となってしまう。

こうしたコミュニケーションからは、
あなたもその人も自分らしい自分から遠ざかるような気になる。

あなたはさびしい、やるせない。

これではたまらない。
あなたはまたもや他者とコミュニケーションを行い、
自分を取り戻そうとする。

しかしながらその場は生産性、効率性に規定されてしまっています。
またしてもあなたは、自分らしい自分から遠ざかるような気になる。

あなたは安心できない。温かい何かが欲しい。

ラポールコミュニケーションはここを考えていきたいのです。

このことについて「ヤノマミ」から大きなヒントを得られるような気がし、
早速、本とDVD(NHK ヤノマミ ~奥アマゾン原初の森に生きる)を手配しました。

鑑賞後、感想を投稿しますね。